− WCRP[ 京都大会へ B −

 顔の見えない時代こそ 直接出会い話し合う価値が
〜 青 年 宗 教 者 の 視 点 か ら 〜      

サンガラトナ・法天・マナケ氏     
天台宗「インド禅定林」住職      

 7月12日に起こったイン ド・ムンバイのテロ。約2 00人が犠牲になった。天 台宗の海外寺院「インド禅 定林」住職であるサンガラ トナ・法天・マナケ氏 (44、以下サンガ氏)はそ のとき、東へ約800キロ メートル内陸部に入ったナ グプールにいた。日本での 活動も多いのだが、「建立中 の禅定林本堂の打ち合わせ のため」日本人技師ととも に現地にいた。厳戒態勢の ため、出国が懸念されたも のの、予定通りフライトし 14日夜には日本に戻った。
 「インドではこうしたテ ロや事件が少なからずあり ます。基本的に、事件が起 きると宗教が絡んでいるの ではないかと疑います。し かし日本ではオウム真理教 の事件がありましたが、事 件が起きてもすぐ宗教が絡 んでいるとはまず考えない でしょう。その分インドで は、宗教問題が身近にある と言えます」
 そうサンガ氏はインドの 状況を解説する。さまざま な宗教が存在するインド で、宗教間対話や宗教協力 は日本人が考えるほど生や さしいことではない。「日 本のように宗教間のヨコの つながりがある国は数える ほどしかない。逆に同じ土 俵に上がるのが難しい国が ほとんど。それでもトップ (宗教指導者)同士はある が、日本はトップもボトム (信者レベル)もある」。
 大乗仏教を確立したとさ れる竜樹(ナーガルジュ ナ)ゆかりの地ナグプー ル。50年前、インド憲法の 父とされるアンベードカル 博士(1891〜1956) が仏教に改宗した歴史的な 場所である。サンガ氏の父 はアンべードカル博士の片 腕的存在だった。サンガ氏 は縁あって9歳で来日し、 比叡山で学び修行した。そ して、外国人としては初の 100日回峰行も成満し た。
 「日本で修行した友人が インドに来ると『ヒンズー 語話せるんだな』と感心す るように言う。日本ではお 客さん扱い、特別扱いしな い。同じ修行者だった」と 苦笑しながら振り返る。こ うして得られた人脈は、日 本国内やインドで活動する うえで重要なサポーターと なっている。
 ところでサンガ氏は日本 仏教に厳しい視点も提起す る。13世紀初頭、イスラー ムの進出によってインドの 仏教は滅んだ。「原因はイ スラームだけではないんで すよ。当時のインド仏教そ のものに亀裂が入ってい た。出家者(僧侶)と在家者 に接点が少なく、両者が相 まみえることがなかった。 仏教思想はあっても、そこ で生活するという社会がな かった」。日本仏教が今日、 僧侶と信徒の関係が希薄化 しつつあることを指摘し、 「800年前のインドと同 じようなことが起こらない とは言えない。問題は内部 からの崩壊」と憂慮する。
 さて、WCRPとの本格 的な関わりは前回アンマン 大会(1999)で青年の 船の一行に加わってから だ。「会議の印象よりも、 日本の他宗教の方々と仲良 くできたのが良かった。そ こで学んだこともある。今 でも年賀状をやりとりして います」と身近な体験を披露。
 他方、「ニュースでヨル ダンやアンマンのことが報じられると、すぐ目が行く ようになりました」。現地訪 問は内面のどこかに関心を 継続させる力がある。
 01年に発生したインド西 部地震でサンガ氏が主宰す る「パンニャ・メッタ協会」 は緊急支援とその後の復興 支援に着手した。その際、 日本委員会はパンニャ・メッ タ協会を通じて学校建設に 協力。「落成式に西田多戈止先 生(平和開発基金委員長) に出席いただきました。本 当にありがたかった」。
 世界大会が迫ったが、宗 教者同士が直接話し合う意 義をこう評価する。「IT 時代、ネット社会と言われ るが、さまざまな情報が氾濫している。そこには顔も ないし、血も通っていな い。無責任な情報ばかり。 その意味で大事なのは人間 と人間が会い、お互いの顔 色を見ながら接点をつくり 出すこと。そうすれば生き た話し合いになるだろう し、責任もある」。
 宗教間対話と宗教協力 は、いつの時代もフェイス ・トゥ・フェイスの「出会 い」が基本であり、そこが出 発点ということであろう。
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