イ ン ド か ら の 暦

住 職    中 島 有 淳

 昭和46年6月4日伝教大師のご命日でもあるこの日に、一 人のインド少年が天台宗比叡山延暦寺の公式留学生として来日し ました。まだ九才という彼は、サンガラトナ・マナケ法天といい、 それから15年間比叡山で僧侶として勉学や修行に打ち込む生活 をしました。最後に100日間の回峰行を満行して、晴れて昭和60 年にインドに帰国。彼は、日本とインド仏教界の期待を受け、『インドに大乗仏教の灯を再び点す』ことを使命に、現地での活 動を開始したのです。
 その地は、広いインドのほぼ中央に位置するナグプールの町か ら、車で1時間位の村であります。まず彼はそこに小さな「禅定 林」というお堂を建てました。
 ナグプールの町の中央ロータリーには、インド独立後の初代法 務大臣であり、現代インド仏教にとって重要人物であるアンベー トカル博士の銅像が立っています。博士は『インドが抱えるカー スト制度等の諸問題を解決するには仏教しかない』との考えから、 50万人以上の仲間と共に1965年にヒンドゥー教から仏教に 改宗された指導者であります。しかし悲劇にも博士はその後2ヶ月 で急逝され、指導者を失った民衆は、寺院も僧侶もいない手探 りの状態での活動を余儀なくされていたのです。
 そこへ、日本から立派に成長したサンガ師が帰国したのです。 その歓迎ぶりはすさまじく、1987年に落成した小さな禅定林 の法要には、10万人が結集したといいます。私も翌年に青年僧の 会の仲間と共に現地を訪れ、彼の今後の活動について色々と話し 合いをしたものでした。その後小規模ながら支援活動も続け、そ の間、農地を買収したり、孤児院棟を建て人材を育てて現地の注 目を集め始めました。方向が決まってからの彼の活躍はめざまし く図書館建設、幼稚園、小学校、中学校の開校。釈迦牟尼大仏の 建立、作文コンテスト、巡回医療活動、インド大地震における救 援、英語学院、婦人会、1日診療所と大忙しなのです。
 このような経緯の中で彼は今般、インド仏教再生の願いを達成 する為、「大本堂」の建立を計画。この地はやがて日本や諸外国 からの修行者の受け入れ道場として、大きな役割を果たしていく ものと思われます。
 段々と話が大きくなりました。
先日、1通の手紙がインドから届きました。 それはパンニヤ・メック孤児院の子供達が、 毎年手播きで作ったカレンダーなのです。 1枚1枚描かれた小さなカレンダーを手に していますと、インドと日本と遠く離れた 土地でも、子供達の温もりが感じられ、仏 教が縁で結ばれた因縁の不思蔑さを想わず にはいられません。
 お釈迦さまが生まれた遠いインドの地に、 こうして地道に一生懸命活動をしている仲 間がいることは、とても嬉しいものです。
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