◆インドの一隅を照らす禅定林(1)サンガラトナの来日

パンニャ・メッタ協会日本委員会副理事長 堀 澤 祖 門


サンガ9歳。比叡山西塔の修行道場・にない堂で毎朝の勤めを行なう
 この度、パンニャ・メッタ図書館落成 式に参加したことを機に、総本部長 より求められてインドに大乗仏教の 大本堂を建てるに至った経緯を4回 に分けて解説することになった。
 サンガ(略称)との出会いは私が延 暦寺の留学僧としてインドに3年滞 在したことに始まる。1969(昭和 44)年4月私はインド新仏教徒の聖 地ナグプールに入ってサンガの家に滞 在した。その時サンガは7歳だった。
 サンガの出生については秘話があ る。サンガの両親は敬虔な仏教徒で よく坊さんのお世話をした。ある時 病気をしているチベットのラマ僧がい ると聴いて、わざわざ出向いて自宅 に引き取り懇ろに看病した。2、3 ヶ月で回復した旅僧はお礼として拝 んであげたいが、何か望むことはない かと問うた。
 2人は顔を見合わせた後「私たち は他に何も望みませんが、この年ま で子供がありません。もし子供を授 けてくださるならば」と申し出た。ラ マ僧は「私の力に叶うものならば」と 答えて拝んだという。
 この旅僧が去って3ケ月ほど経った 頃、懐妊したことが確認され、やがて サンガが生まれてきたのである。
 サンガラトナが正式の名前で、三 宝の中の僧宝を意味する。2人がこ の名を選んだのは「仏様から授かった 子だから僧になってもらいたい」とい う願いからであろう。
 いずれにせよサンガは明るく陽気 でいたずらっ子に育った。そんなある 時期に私と出会い、王舎城(ラージギ ール)の日本山妙法寺で子供ながら出 家得度したのである。
 そんな中で日本人との仏縁が深ま り、両親は市の仏教会の役員達と諮 りサンガの将来のためにと日本留学 を次第に考えるようになった。
 私は翌70(昭和45)年3月帰国 したが、この話を延暦寺当局に諮り サンガの比叡山留学が次第に現実味 を帯びて来た。こうして翌71年6 月2日サンガは一人で羽田空港に降 り立ち、私が出迎えた。
 仏縁とは不思議なものである。何 の計らいもないのにサンガが比叡山に 初登山した日は6月4日で、浄土院 の長講会当日、御廟で伝教大師の御 前で祈念し次いで天台座主猊下を初 め一宗の諸大徳に来日のご挨拶が出 来たのである。
 やがてサンガは坂本小学校の3年 に編入学し、私の住む西塔政所から 毎日歩いてケーブルカーに乗り学校へ 通った。9歳の少年にとって片道一時 間もかかる通学距離は大変だったと思 うが、しかし本人は嬉々として学校に 通った。
 政所では私の他に3年龍山の若い 坊さんが2、3人いるだけの大人の 世界で、子供たちだけの世界は彼に とって居心地が良かったに違いない。
 半年もしないうちに日常の日本語 を覚えてしまったが、それと殆ど同じ 早さでヒンディー語を忘れていった。 これには驚いて何とかしようとする が、同国人が居ない状況ではどうす ることも出来ない。
 今考えると、こんな子供でよく大 人の世界に付いて来てくれたと思う。 お山ではサンガにはすべて大人と同 じことをしてもらった。朝5時の同 じ時間に起こし、同じく1時間の坐 禅をさせ、その後の勤行も同じこと をさせ、食事も掃除も一緒だ。

中学1年の夏に初めての里帰り。町をあげての大歓迎を受けた。 左はサンガの祖母
 これは私たちの修行に一定のリズ ムがあるため、サンガだけを寝かせて 置くとノーコンになってしまう慣れが あったからである。しかしサンガはこ れに対して一度も不平や泣き言を言 わなかった。もしこれが出来ず泣き言 ばかり言っていたら、おそらくインド へ帰すしかなかったであろう。
 その意味でサンガは恐るべき子供で あった。今にして真実そう思う。たと え中学・高校の成績が多少悪かったと しても、9歳にして親元を離れてその まま15年間(2度帰国)も留学出来 たということは、やはり並の根性では なかったのだ。
(つづく)

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