◆インドの一隅を照らす禅定林(2)インド仏教の現実

パンニャ・メッタ協会日本委員会副理事長 堀 澤 祖 門

 仏教がインドに生まれて2500年以上、この間インドの仏教は現代まで断絶なく連綿と続いていると、一般の日本人は思っているだろう。
 ところがそうではなかった。インドで仏教が一番栄えたのは前3世紀頃インドに君臨したアショーカ王の時代で、王は仏教に深く帰依し仏教を全インドに拡げ、各地に磨崖や石柱を立てて仏陀の教えを刻んだ。その多くは現存していて当時の仏教を知る貴重な資料である。
 仏教はその後、インドの民族宗教とも言えるヒンズー教(インド教)に押されて次第に衰退し、13世紀の始めにイスラム軍の攻撃を受けてナーランダ寺院などの大寺院が崩壊して、インド本国から消滅した。
 その仏教がもう一度インド本国に復活したのは、凡そ750年後の1956年であった。
 このインド仏教復活を主導した人物はアンベドカル博士であった。彼は最下層カーストの一つマハールの出身であった。インドを語る時、どうしても此のカースト制度を抜きにして語るわけにはいかない。
 イスラム教が宗教として強いのは、単に信徒の信仰問題を指導するだけでなく、信徒の生活の全てにわたって信仰生活を徹底することを指導し強制するからである。
 同じようにヒンズー教では『マヌの法典』という聖典がヒンズー教徒の生活の一切を規定している。それに違反する者は正しいヒンズー教徒では無い。そしてその中にカースト制度が規定されている。
 其れによると、創造主ブラフマン(梵天)は自分の聖なる口からバラモン(司祭階級)を、両腕からクシャトリヤ(武士階級)を、脚の大腿部からヴァイシャ(町人)を、脚のスネからシュードラ(農奴を含む奴隷)を生んだという。

法要に集まる熱心な仏教徒
 さらにこのブラフマンの意図に反して、各カーストの男女がカーストの厳しい壁を破って子を産んだ時、其れはブラフマンの祝福を受けないアウト・カースト(カースト外)として正当な人間とは認められず動物扱いを受けた。これを不可触賎民といい、手で触れればその手が穢れるとまで考えられた。
 さてアンべドカルは不可触民の子として成人していく中で、人間ではなく動物並に扱われる屈辱をいやというほど体験する。幸いに援助者を得てアメリカ・イギリスに留学して自由世界の自由をも体験する。
 帰国後の約20年、彼は自分の属するカーストの社会的レベルを引き上げようと宗教的にも社会的にもあらゆる運動を試みる。しかし一進一退を繰り返すばかりで何ら効果が挙がらない。この時、彼は初めて運動の根源を追求してみて『マヌの法典』の欺瞞に気づくのである。
 これでは我々がヒンズー教徒として如何に宗教的に純粋になろうとしても、神は我々を初めから認めていないのだ。そんな宗教を信仰するとはナンセンスにも程がある。
 そこで彼は早速行動を起こす。その年の全インド不可触民大会で特別発言を求め「我々を愛さない神を信仰することを即座に止める。そしてヒンズー教徒としての20年にわたる我々の闘争もここで終わる」と宣言したのである。

不可触賤民大会のアンべドカル博士

 この後、アンベドカルは独立インドの初代法務大臣として人間差別の無いインド共和国憲法を完成した。
 そしてアンべドカルは1956年10月14日、ブッダ生誕2500年祭を期しておよそ30万人の同胞と共に仏教に改宗したのである。ヒンズー教を捨てて20年、彼は新しい宗教を選ぶのに極めて慎重に検討した。そして仏教が「人間の根本平等を認めること」「ブッダのダルマは合理的・倫理的で、近代科学の精神と一致すること」などが彼の仏教選択の決め手となった。
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