◆インドの一隅を照らす禅定林(3)禅定林の建設と天台仏青

パンニャ・メッタ協会日本委員会副理事長 堀 澤 祖 門

 サンガラトナの日本留学は総じて 14年6ケ月に及ぶがその内訳は、 坂本小学校3年生を振り出しに、比 叡山中学・高校を経て叡山学院本科 2年を修了する時点でサンガの帰国 の構想に入った。両親がかなりの年 齢になっているのでこれ以上帰国を 延々させるわけにいかなかった。
 しかし留学の総仕上げとして山上 の修行生活に戻し、居士林の助手を 1年半程させて修行指導の経験を積 ませ、最後に百日の回峰行にも挑戦 させた。
 この間、サンガの帰国後の修行と 活動の拠点にと、ナグプール市南東 90キロのポー二市に適地を求めた。こ れが第1期の「禅定林」約8千坪の土 地である。
 禅定林の名前は、サンガ師が日本 においては未だ初歩的であった坐禅 止観の修行を更に継続的に実践する ことを期待しての命名であった。
 1987(昭和62)年2月8日、禅 定林の落慶法要が盛大に挙行された。 日本からは叡南覚範団長以下僧俗 50名が参加し、インド仏教徒10万人 が雲集する中で、インド仏教界の最 長老アーナンダ・コーサリヤーヤ大僧 正が「私は1956年のアンベドカル 博士が指導した佛教への大改宗の日 に、外国の仏教徒大会に出席してい て参加出来なかった。
 これが私の人生の最大の後悔であ ったが、今日、このインド仏教徒の大 集会に出会うことが出来、あたかも あの日が此のようであったかと思う と感激の涙が止まらない。インドの 佛教が博士の目指した方向へ着実に 進むことを願って止まない。」と涙な がらに訴えた。
 さて禅定林の存在価値は孤児院− 《パンニャ・メッタ子供の家》を作るこ とに依って一挙に増大した。

天台仏青と禅定林との交流
 禅定林の落慶から3年、天台佛教 青年連盟(天台仏青)が第一次訪印団を 組織して禅定林を訪れ、日印親善合 同法要が挙行された。
 サンガ師の叡山学院や比叡山行院 の同期生や先輩たちが企画したので ある。その時、禅定林の現実を見た 彼らは自活運営の基盤をどうして作 るかを熱心に議論した。
 サンガ師の提案によって、広い土地 を購入し水田耕作・果樹園の開園・ 植林栽培などに着手するため佛青が 募金活動をすることになった。
 それから3年後の92年9月、佛 青から支援金が届き、サンガ師は 22エーカー(約2万7千坪)の土地を 取得した。その時、その土地の一部 を活用して「孤児院」を開くことを師 は発願したのである。
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