2010年9月25日(土)
中国訪問
2007年9月24日(月)
システム
2007年7月11日(水)
停電
2007年5月24日(木)
寒暖
2007年5月4日(金)
インド変化
中国訪問
インドに戻る数日前9月中旬、五台山を中心に中国を訪問しました。共産国のために、寺院や宗教施設は荒れ果てているだろうとのよそで赴いたのですが、予想は裏切られ、寺院は観光の場でも無く、いきた信仰の場所でした。
A few days before returning to India, I visited China in mid-September. For the country communist, Religious Sites, such as the temple I went on the presumption that decrepit sight I saw, not a tourist facility the temple, it was a place of faith alive.
2010年9月25日(土) 


システム
日本から戻り、ナグプールの本部に到着、腰を下ろす隙も無く、人が数人入って来て、バンテージ(僧侶の尊称。日本風には和尚さん)道中問題はありませんでしたかと、いかにも私の到着を見計らっての登場。何年か前に続けて何回も、インドに戻る日程を、日本滞在中に急遽変更、人に迷惑をかけた事があったので、最近は、ナグプール到着まで、戻る日を公表しないようにしています。本部の人たちにも、他言無用ときつく言い聞かせているので、わずかな関係者以外、私のナグプール到着を周知しているはずがない。と思い込んでいるのは私のみ。どのような手段で私の到着日、時間を知ったのか、衆人の登場。無碍に追い返すわけにもいかず、どうしましたかと問うと、実は和尚さん、10月13日午前10時から、アンベドカル思想文学の会合を行いますが、会合の議長は和尚さんに決まりましたと、地元で配布したパンフレットをさしだす始末。1月以上日本にいたために、心身共に日本モード。一言の断りも無く、そんなことをするとは何事かと、頭の中に暴風が吹き荒れたのですが、ああ、そうだ、もうインドに到着しているのだと、自分に言い聞かせ納得。このようなことは日常茶飯事。釈尊がしがらみは苦しみの根源と説かれたことをかみ締めながら、断れない縁に翻弄されます。時間の許す限り承諾し会合に出席しますが、時には声を荒げることもあります。数日後、今度は僧侶が数人到来、11月7日夕方、全インド僧伽協会管長サダナンダ大僧正が在職10年になられたのを記念して記念式典を行うので議長を、あなたに務めていただくことになりましたので、お願いしますと、これまた配布したパンフレットを差し出し事後承諾。その日に別な用があったらどうするのと言っても、どこ吹く風。会合や式典の出席することを拒んでいるのではなく、その前に約束している用と重複ていないか等の、システムにもう少しの配慮を望んでいるのですが。そう簡単に望みが叶えられる現状は存在しません。
2007年9月24日(月) 


停電
日本に滞在した6月上旬、テレビを見ていると、パキスタンで停電のために暴動が発生したと、報じられていました。そうして司会者が、40度も超えて、電気が無ければエアコンも使用できずに頭がボーットして、暴動も起きますよねと言っていました。確かに梅雨の時期であっても、夏のような暑い一日でしたので、司会者として、暑くては大変だろうとの慰めの言葉だったと思います。ここマハラシュトラ州でも停電は日常茶飯事、禅定林近郊の村にいたっては、一日6時間以上の停電。農家の人が、停電のため水をくみ上げることができず、続けて不作のために、種や肥料購入のためにした借金が返済できず相次いで自殺者が出ています。農家は農作物のために電気を欲しがり、学生は豆電球一つでいいから、夜思う存分勉強するために電気が欲しいと思っています。停電一つにしても、普段の生活が諸外国とかけ離れている、日本では電気による最上の便利を想像し、パキスタンやインドの人たちは、生きるための最低限の電気を望んでいます。エアコンがすぐ頭に浮かぶインドの人には、停電はよそ事です。なぜならば、彼らは停電しても、屋敷中の電気がつき全てのエアコンが作動できるだけのじか発電機を持っています。
2007年7月11日(水) 


寒暖
昨日、京都朱雀ロータリークラブでの卓話のために出かけようと車に乗ると、温度計が24度を示していました。温度計をみて、とっさに飛び出した言葉が、「暑い、夏だ」でした。そうして言い終わって、思いついたのが、インドで24度なら「寒い、冬だ」との言葉が飛び出しただろうに。湿度の違いはあれ、同じ気温でも感じ方は場所によって違うようです。因みに昨日の大津の最高気温は29度。ナグプールの最高気温は46度を超えていました。
2007年5月24日(木) 


インド変化
今朝方ムンバイ経由でデリーから谷口雅昭師が来ました。数ヶ月前まで、禅定林、子供の家や、本部に一年近く滞在していたために、隣近所には竹馬の友も顔負けするような老若男女の顔なじみばかり。ナグプール空港から本部に到着したとたん、数人の小学生に囲まれ、朝食もそこそこに、太ったね、やせたね、デリーの気温は何度、と本当に子供の質問か、と思うような部外者には理解できない、込み入った、互いの近況報告。雅昭氏に飛び交う質問の中で、何キロになったと言う問いに。アッシキロとヒンディ語で答えると、子供達はきょとんとした顔。私に、アッシッて幾つ、と聞くからエイティと言うと、エエ80キロ、太ったね。幾つになったとの質問に、パッチースとの答え。再びパッチースって幾つと聞くから、トゥベンティファイブと言うと、25歳にもなったのとの笑い。ゼロを発見し、九九を20×20までは平気で暗記している子供達ですが、現代っ子は、数字を母国語のヒンディやマラティ語では理解できず、当たり前に英語です。そうしてこれは、数字に限ったことではなく、日常言語にも、外来語としてではなく、日常語として、多くの英語が使用されています。英語言語の諸外国に出かけて、特にIT産業で、名を馳せている、インドの人たちが多くいますが、その大きな要因は、彼らが英語を、外国語ではなく、日常語として扱うからです。諸外国での、立身出生のためには、欠かせない英語であっても、国内の文化や伝統を、破壊する大きな原因にもなるような気がします。
2007年5月4日(金) 


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