如是我想

2006年8月の日記

2006年8月30日(水)
意思疎通
2006年8月24日(木)
行き来
2006年8月22日(火)
現状
2006年8月20日(日)
真水
2006年8月19日(土)
チーク
2006年8月17日(木)
惑星
2006年8月15日(火)

2006年8月13日(日)
生き死に
がんばり
2006年8月7日(月)
思い出の人
2006年8月1日(火)
インドの雨
意思疎通
大本堂に安置の、本尊様の赤砂岩を台座に安置するために50トン以上のクレーンが必要で探したところナグプールには一台しかなく、3日前に持ち主と下見に行く約束をしたのですが、約束の時間になってもなしのつぶて。真っ暗になってどうにもならないような時間帯にこれから行きましょうかとの電話。暗闇で下見ができるはずがなく断ると。私はちゃんと約束を守った、断ったのはあなたの方。持ち主の心理状態はこのように移り変わります。こちらの気分や持ち主の心理状態はともかく、当日は禅定林に行けず、昨日行きました。朝10時の約束が3時に来ても、悪びれたところは微塵もない。まあ3時に出れたら明るいうちに到着できるから良しとするか。30分ほど走ると持ち主の知人から携帯に電話がかかり、今ポーニに行く途中、夕方に会いましょうと電話は切れた。今3時半、これから1時間半かけて5時に現場到着。どう見積もっても下見に1時間はかかる。6時に禅定林を出てもナグプールに戻るのは8時。彼の頭の中の夕方はいつまでだろう。案の定ナグプールに到着したのは9時過ぎ。到着20分ほど前に件の知人に電話、後に20分で行けると伝えると、相手もなんのためらいもなく、待ってますとの返事。時間感覚の意思疎通が図られている人間同士には労することもないが、そうでない人間には胃の痛い思いです。
2006年8月30日(水)  No.18

行き来
昨日、来訪者の波が途絶え少し時間ができたので日本行きように出したスーツケースを片付けようと、ケースを空けたら、中は空っぽ。19日の夜8時半のフライトでナグプールからムンバイに行く予。通常ですと国内線30分前、国際線2時間前のチェックインですが、現在の国際的テロのため国内線は90分前、国際線4時間目のチェックインを義務付けられました。これを守るには6時半には本部を出ないといけない。それにあわせて4時過ぎにケースを出し、荷造りする前にエージェントに電話。結果チケットが用意されていないことが判明。その昨日まで、そのままになっていました。85年末にインドに戻ってきた当時は数年は二年に一回ぐらいの割合で日本に行きました。それが少し増え年に一度、もう少し増え、ビザの関係もあり半年に一度。一年に一度くらいの時は一月くらい前から、荷物を詰めたり、気持ちもわくわく。しかし昨年は6回日本を往復しました。こうなると、今回同様、出発の数時間前までスーツケースに目をやることもない状態。取るものもとらず、着の身着のままと言うのが最近の動向です
2006年8月24日(木)  No.17

現状
1971年に日本に行き、最初にインドに戻ったのは4年後の75年。小学校卒業、中学校に入ったこと、またこの年6月29日に比叡山で正式に得度したことにより、両親に報告を、と言うことで夏休みを利用して一月弱インドに戻りました。二度目はその6年後の81年。高校を卒業し比叡山学院に入学、大人の目でインドを見て来いとのことで、この時も夏休みを利用して一月ほどの滞在。75年の時には師匠に手を引かれ往復しましたが、81年が正真正銘の外国一人旅。伊丹空港からエアーインディアでバンコクまで行き、パンナムに乗り換えムンバイに。日本に戻る時には逆ルート。初めての一人旅を心配した師匠に色々と注意されましたが、一番強く言われたのは、インドに着いたらすぐに日本に帰る飛行機のリコンファームをする事。教えられた通りにナグプールに着いてすぐエアー会社の事務所に行きリコンファーム、一月のナグプール滞在を終了。ナグプールだけでは心配なので、離陸より3日前にムンバイに出、本店に行き再びリコンファームを。これでバンコクまでは大丈夫。バンコクでは2日間、飛行機待ちの時間があるために、チケットを現地の旅行会社にお願い、勿論リコンファームも現地旅行会社の管轄。バンコクに無事到着、エージェントが空港に迎えに来てホテルまで送ってくれ、離陸当日にまた迎えに来るから後は自由時間ですと別れた。私はおどおど、こわごわとホテルの近辺を観光。朝4時の飛行機であったので1時過ぎには空港に行かなければならず、12時過ぎに眠たい目をこすり空港に。カウンターにチケットを提出すると、あなたの名前はありませんと一蹴され、エージェントにどうなっているのと涙目で訴えると。そんなはずは無い、ちゃんとチケットにもOKと書いてあるでしょう、ちょっと待って下さい、エアー会社の上の人に問い合わせてきますから。戻ってきたら今度は本人が涙目。どうしたのかと聞くと、申し訳ありません、私の手違いでした、リコンファームしてなかったのでチケットが無効になっていました、私は新米で、チケットにOKと書いてあったので大丈夫と考えたのです、との返事。頭をよぎったのは、山ほどある学院のレポート、日本に帰って数日後には新学期が始まり、すぐに前期の試験。頭をよぎるものは沢山あるがどうすることもできない。もう一つ大きな悩みは、心配している師匠およびわざわざ伊丹空港まで迎えに来てくれているはずの兄弟弟子への連絡。携帯電話が当たり前の時代ではなく、固定電話すら、国際電話となると思うようにはいかない時代。数時間後、伊丹空港に到着の時間になりようやく電話がつながり、師匠に今バンコクですというと、大阪到着の連絡と思っている師匠は、何のことか理解できず。空港では兄弟弟子が、私が乗っているはずの飛行機から出てくる全ての人を見送り、いないので空港の事務所に問い合わせるとそのような名前の人はいませんと言われ、私の電話でようやく一段落。その後、私は席が空けばすぐに乗せてくれるとの約束で、一歩もホテルの外に出してもらえず、3日間バンコクのホテルで缶詰状態。その次にインドに戻ったのは82年末から83年の新年にかけて。日本から3人の同行で、印日仏教友好協会(現、パンニャ・メッタ・サンガ)を立ち上げ、禅定林の建設用地を購入するために2週間ほど訪れた。この時もリコンファームを強く言われ、ムンバイとナグプールの二箇所で行い、所定の時間に空港に着いたが、案の定リストに我々の名前が無い。タイの時にはタイ語を話せるエージェントがいたのでまだ安心していられたが、今回は私が案内人、と言って英語はもとより、ヒンディ語も思うようには話せない状況の中、身振り手振りで交渉。帰国後すぐに用を控えていた方のために、高額支払いビジネスクラスに変更してもらい、残り二人は3日後の飛行機で帰国。私にいたっては、一週間以上座席が空いていないとのことで、高額支払ってムンバイのホテルに投宿するより、少しでも多くの時間を、共有できることを両親も喜ぶだろうと、汽車でナグプールに戻った。両方の事件電話、コンピュータ、Eメール等が無く、情報通信が不便極まりない20年以上前のことです。20年の間にインドは国際社会の先導をきってコンピュータ、ITが発達しました。しかし現状大きな変化は見られません。8月22日から3日間広島と京都でWCRP世界宗教者平和会議の青年部会があり、26日には禅定林大本堂建立委員会、30日には京都朱雀ロータリークラブでの卓話等多くの用件を抱え、8月20日に日本に戻れるようにチケットの手配をエージェントに頼んで了解の返事をもらい、安心してこなすべき仕事にいそしんでいたのですが、三日前になっても音沙汰が無い、はてさて、どうしたのかと電話をすると、夕方までには必ず届けますとの返事。夕方どころか夜になっても連絡が無く、翌朝再び電話をすると、昨晩は出先から帰れず届けられませんでした、今日は間違いなく届けます。ところがこの約束も反故。ナグプールを出なければならない数時間前に、どうなってるのかと強い調子で電話をすると、私は支店長ですが、お客さんが約束されたのは、当支店の従業員であって私では有りません。私は不在していることが多く、お客さんが話をされた従業員は無断で数日前に等支店をやめていきました。よって私および当会社には何の責任もありません。我々は支店長とか従業員という個人的な立場で話をしたわけでもなく、支店の代表者と話をし、また数日前からは支店長本人と話をしていたにもかかわらず上記の答え。こちらがおわなければならない不備はどうなるのかと聞けば、アイアムソーリで片付けられました。日本はお盆で、間際にチケットを入手することができず、日本での約束を全てキャンセルしなければならなくなりました。ご迷惑をおかけした多くの方にお許しをこうかりです。今インドは経済大国になろうと躍起になっています。しかし、多くの場合、国資本がインドに入ってきているのは、安価な人材確保が最大メリット。本当にインドが諸外国と肩を並べたいのならIT、コンピュータとともに人間としての動向も改善しなければいけないでしょう。常套句ですが、ここでも思い出すのが人を育てる。
2006年8月22日(火)  No.16

真水
本来、塩っ辛いはずの海水が真水になったと昨日からムンバイは大騒ぎ、早朝からその水を飲もうと長蛇の列。人が集まれば当然のように報道関係も、良いニュース、良い映像がとれると集まってきます。テレビが映像を流すとまた人が倍増するといった循環。
なぜ真水になったのか、ある人は、今年は例年の倍以上の雨が降り海に流れ込んだためにと言い、別の人は、その近辺の海の中にイスラム教聖者を奉るモスクがあり、聖者の神がかりな力で真水になった。この水を飲むことにより全ての病気が治ると飲むことを勧めています。州政府およびムンバイ市は飲むべきでないとの意を公表しているのですが、軍配は聖者の力に上がっています。ムンバイでイスラム聖者が力を発揮すれば、ヒンドゥ教も負けてはいません。グジュラート州の海はヒンドゥ教聖者の力で真水になったとこちらも大騒ぎです
2006年8月20日(日)  No.15

チーク
PMホームページ、18日のPM NOWにチークの木が枯れていると書きました、その原因が19日の地元朝刊に掲載されています。ユテクトナ・メクレリス(ヒンディ語デーバナガリ文字で書いてあるため、実際にはどのような名称なのかわかりません。ヒンディ表現の英語はRをはっきりと表現しますので。例えば、ティーチャ―はティーチャル、ライターはライトルというように。そのほかにもインド独特の表現方法があります)と言う虫が木につき、やわらかい青葉を餌にしているようです。この虫夏が終わり、雨季入りした頃を見計らっていっせいに繁殖、雨が強くなるといなくなるそうです。この流れで自然環境がうまく動いているのですが、今年は雨季入り時期、数回雨が降っただけで、あとは雨が雲隠れしてしまい、虫の天敵がいなくなり繁殖するのに最適な環境がそろい四方のチークの木を食い散らしているようです。専門家が言うには、本来ヘリコプターで空から薬を噴霧したいが、経費的に叶わない。しかしそのうちにトライコグレマ・ブラジリヤン虫が発生し、この虫が天敵であるため病気はなくなるだろうと。また、木の生長に多少の影響は出てくる可能性はあるが、涸れることはないので心配はないとの事。また彼らは、天候異変が元凶だと警笛を鳴らしています。我々は天候にしろ、発生する問題全てに、個々の問題として考えがちですが、小さな問題であっても、その問題によってまわりまわって多くの問題が起こります。一つの嘘を隠すためにいくつもの嘘をつかないといけなくなるのと同じです。家庭から出すゴミ一つにしても、わずかなものと考えますが、それがまわりまわって多くの問題を引き起こします。このたびのインドのチーク枯れの問題、見た目はチーク喰い虫が原因ですが、雨が普通に降っていれば、虫も生き、チークも枯れることは無かったのです。ではこのように普通でない降り方になったのは誰のおかげかと言うと、言わずとも我々人間です。
2006年8月19日(土)  No.14

惑星
太陽系の惑星が水金地火木土天海冥と9つあることを中学校の時に習いました。それが三つ増えて12あるとの情報がインドにもテレビ新聞等を通じて数日前から流れています。この情報に平行して、増えたことに対して、占星術を駆使する占い者が、ある占い者は、そのようなことあるかもしれないと言い。別の人は、占星術の星とと現実の惑星とは何の関係もないと言い、他の人はそんなことありえないと主張しています。科学万能国になろうとしている、またITで一旗揚げようとしているインドは占いと科学が互いの主張を疑うこともなく共存する不思議の国インドです。
2006年8月17日(木)  No.13

今日は母シータバイの13回忌でした。12年も経ったとは思えないのですが、時は我々が思う以上の速さで過ぎて行きます。長い年月が経過しましたが、12年前の今日、厳密には8月13日と14日の出来事を忘れることができません。雨季のこの時季、母は持病の喘息が酷くなり、咳が止まらず医師に相談したところ、ともかく入院をさせて検査をし、様子を見ようということになりました。結果が出て時点で医師に別室に呼ばれ、喘息患者の特徴ですが、深呼吸をすることが多く肺に負担がかかり、彼女の肺の状態も、三年余分に生きたと思って覚悟してください下さい、とのこと。もちろんこのことは本人には話しません。もともと入院をかたくなに拒否していましたが、病状がそれを許さず私の独断で入院させました。結果が出た後、内容は知りませんでしたが、以前より家に帰りたいとばかり言うようになりましたが、医師の許可が出ず、帰宅は許されませんでした。後談ですが、亡くなってから日本感覚で、畳みの上で死なせたかった、とまわりの人に言ったら、病院代をけちりたかったのかといわれました。病状は一進一退を繰り返し、覚悟を決めなさいと医師の言。いつものように13日の夜に病院を訪れ、話をしていると、明日はどうするのですか(実の息子であっても、僧侶である以上、決してぞんざいな言葉は使用せず、いつも敬語で話していました)、と聞かれ、いや、行くのをやめようと考えていると答えると、形相が豹変。何のことかと言うと、一月ほど前から智恵山で植樹祭をしようと計画を立ており、その日が8月14日。寝ても起きても、24時間の大半を咳をして苦しんでいる、また慣れない病院生活で、植樹祭は頭の片隅にも無いと思っていたのですが、急に問いかけられ困惑しました。私は大丈夫、数日中には退院できる、私の事は心配せず、当初の予定通り智恵山に行って植樹をして来て下さい。あなたが行かなかったら、集まった多くの人が悲しみますよ。反論しても聞くような人ではなかったので。わかった、早朝に出発して、植樹が終われば早々に引き上げ夕方前には戻ってくるからと別れ、14日予定通りの行動をしました。ナグプールから約200キロ離れた智恵山で植樹をしている時、10時にナグプールから山麓の関係者の家に危篤の電話があり、それを聞いた私は行事の最中、身動きがとれず、終了次第連絡すると行事を続行。2時過ぎに電話をすると、一時を争う状態との返事。車を飛ばしに飛ばし、携帯電話がなかったために、大きな町を通過しなければ電話が無く、街に差し掛かるたびに電話を入れ様態を確認。ナグプールの入り口までは変わらない状態でしたが、入り口で電話を入れると、たった今、息を引き取りました、これから遺体を家に連れて帰るところですとの返答。死水を取ることも無く、最後の出会いは、不動明王の形相、私の事を心配する暇があったら、あなたを待っている人たちのことを考えない。この時だけでなく、彼女は生涯を通して本当に強い人でした。女性とは言え、44年前のインドの平均寿命は50歳そこそこ、その時代に40歳過ぎての出産。生まれたのが私です。そうして彼女の最大の強さは、インド仏教の復興のため、虐げられた人たちの幸福のために、年老いてからできた一人っ子を日本に出したことです。今日の法要には全インド僧伽協会官長猊下をはじめ多くの僧侶が法要に参列してくれました。官長猊下は、今私が僧でいられるのはシータバイのおかげです。マナケ家とは1963年からのお付き合いですが、当時の社会状況は、僧侶である私を世話することがありませんでした。一つ二つあった家族の中でもマナケ家は私にとって物心両面にわたる支えでした。衣食住から、僧侶成り立てほやほやの私には将来に不安もあり、人間として、僧侶として多くの悩み苦しみを抱えていました。そのような時、力になってくれたのはシータバイです。と述べられ参列者の涙を誘っていました。己を忘れて他を利するを生きた彼女の血を引いている私も彼女に恥無い様に生きようと思います
2006年8月15日(火)  No.12

生き死に
数年前に、インド生まれのドイツシェパード犬2匹をくれるという人がいたので、番犬をかねて、子供の家の子供たちが、動物が身近にいることで命の尊さを実感してくれるだろうとの思いから飼い始めました。成犬になった今は一匹二匹というよりは、一頭ニ頭の感が有ります。子供たちも馬乗りでなく、犬乗りになって遊ぶほどの仲良しです。雌犬がいるため毎年数匹子供を生みます。その度に人にあげるのですが、現在子供の家に2匹います。そのうちの一匹、ステラが昨晩、毒蛇かサソリか毒虫かわかりません、何かにかまれ、それまで元気に走り回っていたのが、急に生気をなくしへたり込んでしまいました。いつものようにかまおうが、突っつこうが一向に動く気配なし。これはおかしいと、バイクに乗せてポーニ本町の動物病院に連れて行くと、毒が回っていることが判明、医師の治療、子供たちの世話の甲斐なく、数時間前までぴんぴんしていたステラが夜10時に、あっけなく死んでしまいました。元気に走り回っていた時から亡くなるまでの一連の動きを、子供たちは目の当たりにしています。中には今朝の朝食が喉を通らなかった子供もいます。生き死にがあまりにも身近にあるために、命をぞんざいに考える弊害がないわけではありませんが、命を考えるようになるのかもわかりません。このような日常があるからこそ、インド哲学や仏教思想が発生したのかもわかりません。
2006年8月13日(日)  No.11

がんばり
インドの人は怠け者だとよく聞きます。社会的に身分の低い人はいたって怠け者だと。仕事の進み具合が遅くなったりすると、私もその通りとだと考えることもありますが。実際に「社気的身分の低い人」インド風に言うと、カーストの低い人たちとともに生活をしていると、この現状には社会システムに原因があるのではないかと思うことが多々あります。その例が最近身近に発生しました。将来的にはその収益で図書館運営の資金を調達しようとの試みから、去る2月8日に落成したパンニャ・メッタ図書館の表部分は商店にできるようになっています。商店にするもう一つのねらいは、子供の家の子供の就職先確保です。今すぐにはじめようとすると、年齢的にも経験的にも責任者になれる子供がいません。子供の中から責任者が出てくるまで、他人に貸そうと言う話も有りましたが、経験豊かな弁護士さんが、一度貸したら居座られてしまいます。こちらが3年だったと申し出ても、相手は既得権を主張、でて行きません。と助言してくれたため、図書館は予定通り運営、毎日100人以上が来ていますが、商店部分は貸さずに時の来るのを待っています。いつ時が来るのかと言うと、22歳の青年が3ヶ月前からナグプールのコンピュータ関係の店に商売見習い修行に行っています。彼が責任者になる状況が発生したら店は開店です。ポーニで学校に通っている時には、学校嫌い、勉強嫌い。私も学問をどちらかと言うと二の次と考えていたような人間、彼の気持ちが理解できないでもない。ただ、しきりやと言うか、リーダシップを発揮する人であることに目をつけ、数年かけて10年生をようやく卒業できた時点で、ナグプールに連れて来て、知人に頼み、日曜以外の毎日、10キロの道のりを自転車で通い、コンピュータ関係の店で見習いをしています。朝11時に家を出て帰宅は早くて夜の8時遅い時は10時11時。ポーニで学校に行っていた時には、あからさまに不服な顔をして行くことが良くありましたが、今は雨が降ろうが槍が降ろうが、喜々として通っています。家にいる時間も怠けているわけではなく、掃除や色々な用事をこなしています。見習いをしている先でも、それまでコンピュータのコの字も知らなかった青年が、わずか3ヶ月でオオーナの片腕的存在になり、初歩的な故障なら一人で修理できるまでになりました。そうして一昨日、ポーニに行きたいのですが、というので、何故と聞くと、今まで行っていた学校に卒業証明書を、そうしてポーニ市役所にカースト証明をもらいに行きますというので、もらってどうするの聞くと、ナグプールの学校に通いますと答え。一瞬耳を疑いました。青天霹靂、嬉しい悲鳴。あれほど学校を嫌がっていた人間が、また、毎日10キロ自転車をこいで朝から晩まで働いている現状を見れば誰しもが大丈夫かと考えてしまう現状にあります。本人曰く、午前中は学校に行き、その後の時間は、今までどおり店に見習いに行きますとのこと。入学が少し遅れましたが、明日、月曜日に入学を申請、許可がおりれば通学となります。上記の「インドの人=怠けもの」とはかけ離れた現状です。同じ人間がどうしてこのように変貌を成し遂げることができたのでしょうか。今までは夢があったにしろ、それは漠然としたものでした。しかし、今は、一年ほど見習いをした先には開店、彼の夢は現実化しています。現実化した夢をかなえるためにはどうしたらいいかは、他人に指図されなくとも自分で考え行動をします。一年先が楽しみです。4000年来揺るぐことの無いカースト制度に根付いたインド社会は、上位カースト、権力者だけが潤い、努力した人間が報われないシステムになっているため、努力組みはがんばることを無駄に思うようになり、人生に諦めを感じます。努力が報われ、人生に夢を持つことが叶うなら誰しもががんばるはずです。
2006年8月13日(日)  No.10

思い出の人
昨日懐かしい人に会いました。昔師匠に、人の名前を覚える名人はお前をおいて他にない、と言わしめた私ですが、最近は歳のせいなのか、この神話が崩れそうです。しかし、十数年前にも同じようなことがありました。1991年からパンニャ・メッタ子供の家を運営しているのですが、運営にあたり州政府の認可が必要、当時数年にわたり、子供の家から45キロ離れている、バンダラ県庁内にある社会福祉課にほぼ日参。ここ数年、道がずい分良くなりましたが、当時は道幅も今の半分、前に進むより穴をよける時間の方が多いような道。社会福祉課事務所の開く10時に行き課長に陳情。ナマステ(こんにちは。厳密には、ヒンディ語にも、朝晩の挨拶が別々にありますが、一般的にはいつでもナマステ)。ナマステの前に何々課長とご本人の名前をつけて挨拶をしたいがこれが覚えら得ない。認可をもらうのに、名前を覚えると、何かとお目見えよろしいかと一生懸命に覚えようとしてもだめ。ヒンディ語文字やローマ字で覚えても一向に埒が明かないので、考えたのが、漢字で覚えるともしかして覚えられるかも。課長の名前はゴレレさん。ゴレは馬、全体的には馬屋さんと言う意味。どう漢字に直そうか。馬レさんでいこう。こうして自分の中では完全に課長の名前が覚えられた。翌日事務所に行き、意気揚々代と馬レさんナマステと何度も何度も繰り返しても返事をしてくれないどころか振り向いてもくれない。威厳や面目を重んじるインドの行政関係者、昨日気にさわるようなことをした覚えも無いのに。その後数日、馬レさんナマステに対して、ゴレレさんは意に介さない。数日後ようやく、何故課長が返事をしないか気づきました。彼の名前は馬レさんではなく、ゴレレさん。出世したゴレレさんに、昨日久しぶりに会いました。
2006年8月7日(月)  No.9

インドの雨
7月30日早朝ムンバイ空港に到着、飛行機を一歩出ると携帯に飛び込んできたメッセージは、ナグプール近郊は48時間以内に大雨の恐れありとの警報。空港内のテレビに目を向けると、マハラシュトラ州のあちこちで起こっている洪水や、河川氾濫のニュースばかり。ところが今日の地元朝刊には、ナグプール近郊、例年より11パーセント降雨量が少ないとトップ記事。6,7月で例年の平均降雨量は495,9ミリ、しかし今年は443,3ミリ。7月一月のナグプールの平均降雨量は346,54ミリに対して去る7月は300,4ミリしか降雨量が無かったとの発表。ルヤード村のお年寄りたちは7月8月の農繁期の時に昔ながらの陰暦による数え方ではあるが、7月第何週目が近づいているので、そろそろ何とかの準備、8月の何週目が近づいているから何の準備と、言って皆で話をしていた。そうして彼らの言うとおりに種をまく週に種をまき、草をとる週に草を引けば、決まった時期にほぼ決まった降雨量があり、収穫時季にはきちんと収穫できたし。しかし今は、年間総雨量800ミリ前後は降るが、以前のように決まった形では降らない。バケツをひっくり返したような雨が続いたかと思うと、ばったりやんでしまう。川や井戸に十分な水量が無いため天からの恵みの雨で田畑をする我々にとって、このような不定期な雨量は最大の敵。しかしこの元凶も人間であるかと思うと、穴があったら入りたい気持ちです。
2006年8月1日(火)  No.8

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